どうもほくとです
今日はニッカウヰスキーのその後をお話ししていこうと思います
蒸留をスタートするも
商品化までは時間がかかる為
それまではりんごジュースをはじめ
ワイン、ケチャップ、ゼリー等を生産しながらりんご主体の商品を作っていました
余市の蒸溜所には当時の商品が展示されています
1939年に第一次世界大戦が勃発
1940年にウイスキーの出荷を開始したものの
すぐに海軍指定工場になり
イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、国産ウイスキーへの需要が高まりました
このときは将校への配給用のウイスキーを製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、製造を続けることが可能となり
売上も確保することが可能となりました
そして1943年に竹鶴政孝専務は社長に就任することとなりました
そして終戦後は自由にウイスキーを自由に販売することができるようになると
様々な商品が世の中に出回りましたが
当時発売されていたほとんどのウイスキーは
三級と言われるイミテーションと呼ばれるような質の悪いウイスキーが溢れかえっていました
竹鶴は本物を作りたい一心で
高品質のウイスキーのみ製造を続けていた結果
またもや経営が苦しくなってしまいました
加賀正太郎は竹鶴政孝に三級ウイスキーの商品化を懇願し続け
最終的には竹鶴が折れる形でニッカウヰスキーの三級ウイスキーが発売されることとなりました
ただ竹鶴は三級のウイスキーを造るにあたっても
職人魂を発揮し
原酒を当時の税法の制限いっぱいの5%ぎりぎりまで入れ、着色料も合成色素ではなく、わざわざ砂糖を原料に自社生産したカラメルを使用したそうです
当時の価格で500ml350円で販売されていましたが
他社が販売していた商品が720ml300円〜400円程度が主流で
三級を出したが、こだわりを捨てきれず
価格でも他より少し高い三級となってしまい
これもまた売上は芳しくなかった
1952年に社名を現在のニッカウヰスキー株式会社へと変更した
1954年に加賀正太郎氏が咽頭癌の為に亡くなりました
生前加賀は自分の保有する株式の散逸を防ぐために
主要株主と共に朝日麦酒の山本為三郎へ保有全株式の売却をしました
当時の株主の変更はもちろんニッカ側は当日まで誰も知らなかったのだが
従業員一同は朝日麦酒の山本が株主と言う事で
ニッカ社内は騒然となったが
当の竹鶴本人は全く動じず
これは竹鶴が山本と面識があった事も関係しているのかと思われる
ちなみに山本と出資者の3名、鳥井信治郎は竹鶴の留学の見送りに来ていたそうです
加賀正太郎は自身の死期を悟り
ニッカウヰスキーの為に山本為三郎に託したと考えると
最後まで竹鶴政孝、そしてニッカウヰスキーの事を守ってくれたのかと思うと
本当に良い人達に恵まれたのだなと思います
そして朝日麦酒は役員1名を派遣したのみで製造には口を出さず
山本もまた竹鶴を信頼し、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵のように力を貸してくれる1人であった
今でこそアサヒビールのグループ会社となりましたが
歴史を見ているとそうなって然るべきだったのだなと思いますね
それではこのへんで
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