どうもほくとです
みんな大好きニッカウヰスキー
私の得意分野と言いますか
元BAR 日果店長としては外せない蒸溜所ですね
さてさて
色々とお話しして行こうかと思うのですが
かなりただでさえ長編になるかと思いますが
この際色んなことも書いていきましょう!(笑)
ニッカウヰスキーと言えば竹鶴正政孝
まずは竹鶴政孝のお話しをしていきましょう
少し端折ったり大袈裟に書いたりするので
え?って思ってもおこらないでね!
竹鶴政孝
1894年6月20日〜1979年8月29日
広島県加茂郡竹原町出身
忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)
この時の後輩に総理大臣となる池田勇人がいたそうで
政孝の布団の上げ下ろし係だったそうです
大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学ぶ
この時の先輩にマルスウイスキーの岩井喜一郎がいてますね
その岩井喜一郎のツテで竹鶴は大阪の摂津酒造(現在の宝酒造)に入社する事になります
洋酒に興味を持っていた竹鶴は
社長の阿部さんと専務の岩井さんに命じられ
単身スコットランドへ留学しにいきました
当時の日本のウイスキー事情と言えば
いわゆるイミテーションと言われていたウイスキーが出回っていたような時代で
本物のウイスキーを知っている人はほとんどいないような時代でした
そんな中竹鶴はグラスゴー大学で学び
ロングモーン、ヘーゼルバーン、ボーネス(グレーン蒸溜所)で実習して
ペンとノートでスコットランドの宝を持ち帰ったとまで言われました
そのころウイスキーに情熱を捧げていた竹鶴ですが
後の嫁とも出会い
嫁にも情熱を注いだ結果
結婚して帰ることになりました
日本に帰ってきて
よっしゃーウイスキーつくるでー!
と思った矢先
戦後恐慌もあって実現せず
摂津酒造退職して一年くらいは先生をしていたそうです
そこに目をつけたのが壽屋(現サントリー)の鳥井信治郎
ウイスキー作ろうと技師を紹介してもらおうとスコットランドに問い合わせたところ
「いやいや、日本には竹鶴政孝がいるでしょ」
と言われ
スコットランドから技師を雇うために用意した年俸4000円で採用し、竹鶴政孝は壽屋へ入社しました
この年俸4000円
今の貨幣価値でいくらくらいか
ちょっと調べてみましたが
当時の大卒初任給が月給で40〜50円らしく
ちなみに大正11年の週刊誌は10銭、豆腐一丁は5銭程度と言うことを記載されているHPがありました
現在の2000〜5000万円程らしく
20代でそんな年収もらえるってなるとびっくりしますね!
そして蒸溜所の場所に
竹鶴は北海道がいい!と北海道推しを発揮しましたが
鳥井には届かず大山崎にて蒸溜所を建てることになります
1924年に山崎蒸溜所が竣工して
初代工場長に竹鶴政孝が就任しました
それはそうと2024年で100年ですね
何かビッグな商品が出てくるのでしょうか…
1929年に初のウイスキー白札を発売しましたが
当時の日本人にはスコッチのような独特のスモーキーさが受け入れられず
全然売れなかったそうです…
どれくらいスモーキーだったのか気になりますねぇ…
そもそも当時の日本人にはピーティーと言う味わいは感じたことのない未知の味わいだったのが大きいのと
単純に最長で4年半と言う熟成期間では竹鶴の思い通りのブレンデッド ウイスキーを作る事は難しかったのではないかと思われます
そして竹鶴は当初の10年と言う約束をしっかり守って自分の蒸溜所をつくろうと奮闘します
その辺は次にお話ししましょうか
こちらがサントリー白札の後継品サントリーホワイト
低価格ウイスキーとして現在も販売されています
竹鶴が実習していたウイスキー
こちらはオフィシャルからリリースされているロングモーンです
ボトラーズではちょこちょこ出ていますが
現在出ているオフィシャルはこれだけなので是非お試しください!
お値段は…
さて次はヘーゼルバーン!
こちらは13年で定番品ではないですが
現在プレ値ばかりで通常の価格で購入することが難しい商品となってしまいました
上記のヘーゼルバーンもかなり高くなっているので参考程度に見てくださいね
お金が有り余ってる人は買ってもいいと思います!(笑)
ちなみにこのヘーゼルバーン
竹鶴が実習に行ったのとは別物で
そのお話しもおいおい詳しくしていきますね!
そしてお次はボーネス!
と言いたいのですが…
1926年に閉鎖されているのでもう手に入りません…
このブログを読んでいる方にボーネス蒸溜所のグレーンを持っている方はいらっしゃいますか!?
もし持っている方いらっしゃれば是非ボトルだけでも見せてください!
かわりにリンクはニッカのカフェグレーンを載せておきました!
このグレーンは美味しいのでおすすめです!
そんなこんなで次回は竹鶴独立を記載していきますね!
それではこのへんで
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